「能登高校魅力化プロジェクト」のコーディネーターとして、能登高校の存続と発展に取り組んでいる木村聡さん。ワーケーションがきっかけで移住を決めたそうですが、東京と能登を行き来する十数年の間に、一体なにが起きたのでしょうか。
オフィスワークでは得られない体験
現在はどんなお仕事をされているんですか?
能登町唯一の高校である能登高校の存続と発展のために、生徒たちの学びと、その学びを創る先生たちのサポートを行っています。
木村さんがはじめて能登を訪れたのはいつですか?
2005年なので、もう17年も前になりますね。以前勤めていた会社の同期から、田舎体験をする活動「田舎時間」に誘われたのがきっかけでした。
現在は木村さんが代表を務めている活動ですね。どんなことをしているんですか?
牡蠣の水揚げや田んぼの稲刈りといった一次産業の作業のお手伝いを通じて、都会からと田舎からの両方の参加者に交流の場を提供しています。
田舎体験ってそんなに楽しいものなんですか?
毎日食べているお米がどうやって作られているのか、収穫するまでにどんな苦労があるのかといった、オフィスワークでは得られない経験や情報が身体の中にどんどん入ってくる。その感覚が楽しくて、定期的に訪れるようになっていました。
バケーション(休暇)よりは、エデュケーション(学び)の要素が強かったと。
そうですね。受け入れてくださる農家さんや世話役の方もいろいろと能登のことを教えてくれて、どんどん面白い場所だと感じるようになりました。それと、農作業に没頭することで日頃の生活や仕事のことをすっかり忘れて、訪れるたびにリフレッシュできたのも大きかったですね。
作業が終わったら、収穫した牡蠣を食べたりなんかして。
そうそう。これがまた能登の牡蠣はとんでもなく美味しいんですよね。小ぶりだけど肉厚で味も濃い。2回目に訪れた頃には、完全に胃袋を掴まれていました。
初めて能登に来たときのことを覚えていますか?
もちろんです。とにかく景色がキレイで。波穏やかな内浦とその先に見える立山連峰。鏡のような水面に映し出された朝日の美しさに、完全にヤられてしまいました。
当時は能登まで来て、仕事をすることはあったんですか?
それはないですね。当時はインターネットもそれほど普及してなくて、普段する仕事の内容的にも持ち込むようなものは、ほとんどありませんでした。というか、僕の性格的にも「遊びも仕事も」というワーケーションの取り組み方はできなかったかも。
となると、木村さんにとってのワーケーションとは?
田舎時間の参加者たちは、農作業や海の仕事をただ手伝うのではなく、どこかで「この体験のなにかを持ち帰れるんじゃないか、仕事に活かせるんじゃないか」と考えながら取り組んでいる人が多いんです。
と、いいますと。
能登のことを深く知って、能登と自分の仕事をつなげる。農作業を早く終わらせたいから、効率化する方法を考える。そういった思考回路が仕事にも活かされれば、必然的に生産性が上がる。普段の仕事を持ち込むのではなく、田舎での体験や学びを本業にフィードバックさせるのも、ワーケーションのひとつの形なのかなと思っています。
観光の代替ではない、ワーケーションですね。
田舎で遊んで、振り返りの時間を持つ。そういった田舎時間のような社会人向けの教育を、これからも能登というフィールドを活かしながら発信していきたいですね。
地域とのつながりが移住を後押し
木村さんが能登町に移住したのは2018年。なぜ、移住することになったんですか?
能登高校魅力化プロジェクトに参画するため、地域おこし協力隊の一員として移住しました。
もともと田舎での暮らしに興味があったんですか?
そうですね。生まれは兵庫県で東京と埼玉で育ったんですが、子どもの頃から地方を旅するのは好きでした。本格的に地方に関心を持ったのは大学生の頃。北海道旅行で訪れた温泉地の商店街が、寂れたシャッター街になっていたことにショックを受けて、地域活性化や地方創生に意識が向くようになりました。
いつ頃から移住しようと考えていたんですか?
田舎時間に参加するようになって数年経った頃から、いつか移住できたらいいなと考えるようになりました。実際に移住をしたのは、長男が小学校に入学するタイミングです。
なぜ、能登だったんですか?
自分のやりたいことが能登にあったからです。前職(株式会社ベネッセコーポレーション)の頃から、全国各地で始まっていた高校魅力化プロジェクトの仕事に興味があって、それがちょうど能登町で始まったタイミングだったんです。
それを後押ししてくれたのが、十数年にわたるワーケーションで培った人間関係というわけですね。
そうですね。もし、能登で田舎体験をしていなければ、違う人生を歩んでいたと思います。高校魅力化プロジェクトの仕事だけを考えれば候補地はいくつかあったし、実際に他の地域から誘われていたりもしました。でも、本当に好きな場所、住んでみたい場所で仕事をしたいと考えると、やっぱり能登だったんです。
地域の人たちに移住の相談はしましたか?
もちろんです。実際に住むとしたらなにが大変?ということを聞けたのは大きかったですね。地域おこし協力隊の任期は3年でその後のことはどうなるかも分からない。ただ、長い年月をかけて能登の人たちとコミュニティは形成できていたので、食いっぱぐれることはないだろうなと。どこか安心できる部分はありました。
奥様は移住に反対しなかったんですか?
じつは結婚する前から「もし将来、仕事を辞めて能登に移住すると言っても認めてほしい」と伝えていたので、ついに来たかという感じだったと思います。
そんなに前からですか。
じつは能登では結婚式も挙げているんですよ。まだ、移住する10年近く前の話なんですが、穴水町で花嫁行列をやるということで招待されたんです。残念ながら雨で行列は中止になったけど、穴水大宮で式を挙げて能登の神様に結婚の報告と夫婦の誓いをしました。田舎時間の受け入れ農家さんご夫婦が親の代わりもしてくれて。今となってはいい思い出です。
移住するにあたって不安だったことはありますか?
職場も自宅も宇出津という港町にあるんですが、港町の人たちは気性が荒いイメージがあったので「自分と合うのかな」という心配はありました。
実際に暮らしてみてどうでしたか?
みなさんやさしく親身になって接してくれるし、肌が合わないというのは無かったですね。
都会での生活とのギャップを感じたりはしなかったんですか?
それがないんですよね。役場、郵便局、コンビニ、スーパー、商店街といった、生活に必要な施設が歩いて行ける範囲に揃っているので、東京に住んでいたときよりも便利だとさえ感じています。
十数年にわたるワーケーションを経て、現在はエデュケーションという形で能登町に携わる木村さん。自分らしさを追求したその生き方は、能登定住を考える人たちにとって大きなヒントになりそうです。